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東伊豆町の築城石

東伊豆町に残る築城石って、何?。


江戸から遠く離れた東伊豆町が、どうして徳川家康の天下普請による江戸城大改修の石材採石の地に選定されたのでしょう。
天城山系の火山帯が産出した堅牢な石材が豊富な上、海路によって江戸への石材運搬が容易であったことが要因であると云われています。石丁場を担当した大名達、戦国時代を代表する勇士達なのです。



東伊豆町の築城石採石の歴史は、西暦1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いに端を発します。
天下分け目の戦「関ヶ原の役」に勝利を収めた徳川家康は、西暦1603年(慶長八年)、朝廷より征夷大将軍に任命され、徳川の勢力は強大なものとなり天下統一の府として江戸に幕府を開きました。同時に家康は江戸の町の整備計画と江戸城大改修計画を発表、水路を整備するための工事を以下の諸大名に命じたのです。


一番組…越前宰相秀康(これに属する者四人、姓名未詳)
二番組…上杉黄門景勝(これに属する者三人、姓名未詳)
三番組…本田中務大輔忠勝(これに属する者四人、姓名未詳)
四番組…蒲生藤三郎秀行(これに属する者一八人、姓名未詳)
五番組…伊達越前守正宗(これに属する者一人、姓名未詳)
六番組…生駒讃岐守一正(これに属する者一八人、姓名未詳)
七番組…細川越中守忠興(これに属する者十人、姓名未詳)
八番組…黒田甲斐守長政(これに属する者三人、姓名未詳)
九番組…加藤主計頭清正(これに属する者三人、姓名未詳)
十番組…浅野紀伊守幸長(これに属する者、池田少将輝正、堀尾信濃守忠晴、蜂須賀長門守至鎮、山内対馬守一豊、加藤左馬頭嘉明、中村一学忠一、池田備中守長吉、山崎左馬允家盛、中川修理大夫秀成、有馬玄蕃頭豊、前田主膳正茂勝の十一人)江戸市街地拡張は豊臣系の有力大名達約70家に及び、千石に対して一人を賦課した動員は「千石夫」と言われています。

家康は江戸の市街地拡張工事を命じた翌年、西暦1604年(慶長九年)6月、いよいよ江戸城の大改修工事、江戸城天下普請を発表、同年8月、西国の外様大名に対し三千艘の石網船調達の課役を命じると同時に石高十万石に付き「百人持石」(人夫百人掛かりで運ぶ石)千百二十個を割り当てたのです。慶長9年の課役大名の総石高は五百三十万石に及び、百人持石の総数は約六万個に達しました。

●慶長九年、採石を命じられた諸大名
・池田辛勝輝正…五二万石 姫路城主
・福島左衛門太夫政則…四九万八千石 広島城主
・加藤左馬助嘉明…二〇万石 松山城主
・細川越中守忠興…三六万九千石 小倉城主
・加藤肥後守清正…五二万石 熊本城主
・毛利籐七郎秀就…三六万九千石 萩城主
・蜂須賀阿波守家正…一八万七千石 徳島城主
・黒田筑前守長政…五二万三千石 福岡城主
・浅井紀伊守幸長…三九万五千石 和歌山城主
・生駒讃岐守一正…一七万三千石 高松城主
・脇坂中務小輔安治…五万三千石 大洲城主
・松浦式部卿法印鎮信…六万三千石 平戸城主
・毛利伊勢守高政…二万石 佐伯城主
・稲葉右京亮典道…五万石 臼杵城主
・冨田信濃守知信…七万石 伊勢安濃津
・古田兵部小輔重勝…五万五千石 松坂城主
・小堀遠江守政一…一万五千石 伏見奉行近江ノ内
・成瀬小吉正勝…三万五千石 犬山城主
・鍋島信濃守勝茂…三五万七千石 佐賀城主
・山之内土佐守一豊…二〇万二千石 高知城主
・寺沢志摩守宏高…一二万石 唐津城主
・有馬修理大夫晴信…五万三千石 延岡城主
・竹中伊豆守重利…二万石 府内陣屋
・田中筑後守忠正…三十二万五千石 久留米城主
・稲葉蔵人康純…四万五千石 福知山城主
・片桐東市正且元…二万八千石 龍田城主
・秋月長門守種長…三万石 高鍋城主
・戸田三郎左衛門尊次…一万石 田原城主

採石を命じられた諸大名達は良質な堅石を産出し、海上運搬に適した神奈川県西部から伊豆半島東部、特に伊東宇佐美、東伊豆大川、北川、稲取に大規模な石丁場を設け採石しました。また、伊豆の多くの土地が幕府天領地であったことが採石地に選定された一つの理由であると言われています。

慶長十一年には二代目将軍・徳川秀忠により諸大名二十家に対して採石を命じ、寛永五年には三代目将軍・徳川家光が外様、親藩、諸代、御三家を問わず五二家に対し天下普請の名を以て、江戸城大改修事業を完遂したのです。


※参考資料/「東伊豆町の築城石」(東伊豆町教育委員会・発行)、「江戸城石材提供地について」(鈴木茂 著)